麦茶がない

 ジャジャ、

 Cのコードでかき鳴らしたギターを止めて息を吸い込み、サビの部分を歌おうと口を開けたところで小野啓二は歌詞を忘れた。それどころか小野はメロディーをも忘れて立ち尽くした。休日の地方のショッピングセンターのステージで、特に緊張はしていなかった。もとより舞台度胸はある方で、歌詞飛びなどついぞ経験したことはなかった。ではまばらに座る買い物ついでの聴衆の誰かに知った顔を見つけたかというとそういうわけでもなかった。客が不思議そうな顔を日曜のぼんやりした表情の間間から浮かび上がらせようとし、せっかちなものは歌が終わったのかと思い腕を持ち上げようと筋肉に力を籠めようとし、ギターのストラップが肩に食い込み、小野は歌詞もメロディーも思い出そうともせず喧噪の中で自分の心音が元気に鳴っている。

 

「それで農業を?」

 小野啓二はその問いには答えず眼前に広がる田園を眩しそうに見やった。インタビュアーは二つ置かれたグラスの片方に手を伸ばすが、そこに注がれていたはずの麦茶はすでにだいぶ前に飲んでしまったものだった。

0 件のコメント:

コメントを投稿