一夜の宿

 二階が宿泊施設になっているバー。オレンジ色の光に照らされて酒を酌み交わす面々がいた。今日は特に騒がしく、マスターは宿泊客が来たのに気づかなかった。黒いスーツに身を包んだ男は、さらに真っ黒なボストンバックをカウンターに置く。談笑を切り上げたマスターが対応をすると男は「一夜を」とだけ言いマスターから鍵を受け取ると、釣りも受け取らず高額紙幣数枚をカウンターに置き、バッグを提げて二階の部屋に入った。

 いやに辛気臭い客だったな。死神の類かな。マスターは客と談笑に戻るが、男は死神などではなく夜だった。正確には男が持つカバンが夜だった。バッグのジッパーを下すと夜が開き始める。階下のバーの喧騒が止んだ。窓の外、遠くの町明かりも消えていく。男は黒いシーツを敷き終えると、やっとそこに体を横たえる。彼が次に目覚めるとき、瞼の地平線からうっすら昇るのが太陽だ。


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